東国の熱量を届ける

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インタビュー

厳格な父が授けた一番の教えと、
おごりの果てに知った恩師の深い愛

戸村 幸寛さん

株式会社TOMURA
代表取締役

──この度は取材を受けていただき、ありがとうございます。まずは幼少期の思い出からお聞かせください。

香取市生まれ、現在の戸村川魚店がある場所で育ってきました。ザ・昭和の男らしい厳格な父親が経営する魚屋の長男で、早い頃からお店に来る大人に囲まれて育ってきました。お店は年中無休で、家族旅行の思い出は2回だけ。私もお店に立って調理番や帳簿つけなどをしていました。そのため、子供の割に精神年齢が高く、大人びていたこともあり可愛げのない子だとよく言われていました。当時はお店の客単価が低く、日に100人も来るお店だったのですが、父親に怒られてお客様が通る道に正座させられていたこともよくありました。

──そう聞くと、やんちゃな子供時代という印象がありますが?

そうですね。学校ではお調子者を演じていたのですが、家に戻ると厳格な父がいて敬語で話す静かな子を演じたりしていました。実は、生後6ヵ月の時から、ひどい小児喘息を患っていて、朝は必ず発作を起こしていました。同年代の友人と走り回れない。発作の影響で、学校は年に100日は遅刻せざるを得ない。喘息を抑えるための強力な薬を服用するために、休み時間に特別にお菓子を口にしていたのですが、それを同級生からからかわれる。そんな幼少期だったので、自分を守るために自分の心の中にもう一人の自分をつくって語り合うような、二面性を持つ子供でした。

──その虚弱な体質から、どのようにしてボート競技で全国区の選手になられたのでしょうか。

体調改善のために小学一年生ではじめた水泳を中学でも続けていました。高校に入学したとき、校内に水泳部がなくてどうしようか考えていたところ、中学時代の先輩に声をかけられて、半ば強引にボート部の練習会に連れていかれたのが始まりです。

そこで、高身長、イケメンの英語教師のボート部顧問に出会い、「お前を世界に連れていってやる」と言われ、ボートに打ち込むことになりました。高校で始めたばかりにも関わらず、成長曲線が非常に大きく、1年生時の12月にはU-18日本代表候補合宿にまで選出されるようになりました。

──恵まれた体躯に天賦の才。並大抵の努力ではなかったと思います。

実は、幼少期から父親にずっと言われ続けていたことがあります。「どんな分野でも良いから一番になれ。一番を知れ」。

ボートの世界に行きつくまでは、ボクシングやジャーナリスト、アナウンサーなど、色々なことに興味を持ちましたが、どんなときでも、その分野の一番の人を最初に調べていました。今でも大切にしている価値観ですが、努力を意識するのではなく、一番になることを意識していたのかもしれません。実際に、U-18日本代表候補の合宿に選出されたときは、完全に天狗になっていました。

──「天狗になっていた」とは?気付くキッカケがあったのですか?

同じ高校の同級生に今でも破られていない日本記録保持者がいて、全国で戦えるのに千葉県内では万年2位でしたが、全国大会でメダルを狙える選手になっていました。そのため、複数の競合大学からのお声がけももらっていて、無事に高校を卒業すれば競合大学進学という絵を思い描いていました。しかし、ふたを開けてみたら学内成績の評定平均が「たったの0.1」足りていないことが判明。当時の担任に直談判を試みましたが、「絶対にあげない。あなたのためにならないから」と断固却下され、大学進学の道が閉ざされました。このときは先生を激しく恨みました。

しかし、数十年後、疎遠になっていた当時の先生に電話をかけ、「あの時はすいませんでした。当時の自分のおごりにようやく気付きました」と伝えたところ、先生が電話口で号泣されたんです。

「あの時、3学年の先生全員で集まって、戸村のために0.1を上げるべきか会議をした。しかし、ここで彼を甘やかしてはいけないと、全員一致で『上げない』と決めたんだ。絶対に分かる日が来ると信じて心を鬼にした」と。それを聞いた瞬間、私も電話口で嗚咽を漏らして激しく泣いてしまいました。あの厳しい却下は、私を本物の大人にするための、先生方の苦渋の決断であり、深い愛だったのだと知りました。

──入団された実業団での歩みについてもお聞かせください。

大学の推薦が閉ざされたことで、それならば早くお金を稼ぎたいという気持ちもあり、一つの目標であった実業団へ進みました。しかし3年目の練習中、突如として猛烈な発作に襲われ、救急車で運ばれました。元々あった小児喘息が再発し、さらに重い気管喘息へと悪化してしまっていたんです。

医師からは「一生治らない。いつ生命の危機に陥るかわからない」と深刻な忠告を受けました。実業団に入ってからも会社に対して不誠実に過ごしていた自分へのけじめとして、これ以上迷惑はかけられないと自ら退職願を提出し、療養のために地元に戻ってきました。その後、非常に苦しい「闇の時代」を経験することになりますが、泥臭く闘い続け、健康と自信を取り戻すための挑戦を続けました。

老舗の暖簾を守る
ようやく辿り着いた家業と成長

──地元に戻ってきてすぐに家業を継いだのでしょうか?

このときも本当に紆余曲折ありました。元々は、家業を継ぐのではなくサラリーマンになりたいと思っていました。しかし、実業団でもらった給料を見たときに驚きを覚えました。福利厚生や選手寮など、本当に恵まれていましたので感謝はしていますが、この稼ぎで一生を過ごすことはできないだろうな、と感じたことを覚えています。そのため、自分の腕でビジネスをすることは考えていましたが、それがイコール家業ではなかったです。地元に帰ってきてからは、ウェルネス関連で起業し、順調に売上を伸ばしていきました。

──そこから、何がきっかけで家業へ戻ることになったのですか?

30代前半で、あるビジネスコンテストに出場したことが大きな転機となりました。コンテストの舞台そのもので腹を括ったのではなく、コンテスト翌日に、急に「家業を継ごう」という決心が出てきて……。すぐに母のもとに行き「うなぎを食べさせてくれ」とお願いし、決意を固めました。

──遂に辿り着きましたね!改めて、現在の事業について教えてください。

事業継承したときは伝統的な白焼きが中心でした。そこからかば焼きもはじめ、今ではそごうさん、東武百貨店さんの他、うなぎ屋さんへの卸売業を行っています。

他には、事業所のある香取市では、「うなぎの学校」という名を冠して、うなぎの掴み取り体験を行っています。先代の頃、この場所は利根川で獲れた天然うなぎを中心とした川魚の保管池(生け簀)でした。そのころの水郷の原風景や当時の漁師さんに触れられる体験をして欲しいと思い、開校しました。全国各地からたくさんのお客様がお越しくださっています。

──子供たちの歓声が聞こえてきそうですね。

今の時代、YouTubeなど、携帯一つで簡単に情報を手に入れることができるようになりましたが、規制も厳しくなり、「五感」を磨ける場がなくなっていると感じています。しかし、このうなぎの学校では、自分で捕まえたうなぎに愛着を感じながら、最後はそのままいただく。命をいただくことへの感謝と尊さを、五感すべてを使って学んでもらう。ここにしかない本物の体験と感動を届けていると自負しています。

──会社名「株式会社TOMURA」に込めた想いもお聞かせください。

会社名に込めた思いは二つあります。一つは、代々名士として地域を支えてきた「戸村」という大切な名前を、会社としてしっかりと残すこと。遡ると江戸時代から、戸村の名前が残っています。公共機関含めて、市内で8番目に電話回線を引いたというエピソードも残っていたりします。

そしてもう一つは、将来的に新しい事業を始めることになった場合を考えてです。100年、300年続く企業をつくるとき、川魚の仕事も役割も変わっていくはずです。名前がボトルネックになって挑戦の幅を狭めないようにするためにも横文字の社名を据えました。

地域に寄り添い、お客様の「極上の日常」を届ける

──地域内での役割や、今後の構想についてお聞かせください。

私たちの役割は、この香取にある130年続く伝統の暖簾を絶やすことなく次の世代へと引き継いでいくことです。これまで弊社を支えてくださった地域、お客様という大切な土台を守りながら、自分たちが目指す将来像・価値提供に向けて、ここでしかできない体験を磨き上げていきたいと考えています。

──具体的に構想している次の一手はありますか?

今あるうなぎの掴み取り体験のスペースは、元々の構想段階で2倍ほどの計画がありました。広すぎてうなぎが獲れないという声が聞こえてくる可能性があったため、現在の大きさになりましたが、その分のスペースが空いています。ドッグランやカフェスペースを併設し、愛犬と一緒に、ゆっくりとお忍びで過ごせるような、綺麗で落ち着いた空間をつくりたいと考えています。現店舗もぎゅうぎゅうに座っていただく店舗ではなく、ゆったりとした空間設計になっているのも、このようなことを見据えての設計です。

店舗運営や技術は従業員に任せて、自分は語り部となってお客様と楽しくお話ししながら、この街に豊かさの循環を生み出していきたいです。

自分よりも優秀な人とはたらく
老舗130年を仕組みで持続する組織へ

──素敵な構想を実現するために、どのような人と働きたいですか?

「自分よりも優秀な人と一緒に仕事をすることの大切さ」を幼い頃から父に教わってきました。トップがすべてを抱え込むのではなく、自分より長けている部分を持つ、頼れる人にしっかりと仕事を任せていくこと。

実際にいま、弊社でもすべての工程を一貫して高いレベルでこなせる一流の職人や弟といった、現場のプロフェッショナルに全幅の信頼を置いて仕事を任せることができています。経営や店舗管理に関しては、自分が現場に入ることもまだまだありますので、こちら側を任せられるような右腕を必要としています。紆余曲折ある私の人生ストーリーやそこから生まれた価値観、大切にしていることに共感してくれる人がいれば全国どこからでも採用したいです。

──職人芸とマクドナルドを両立したい、というお話の真意は?

うなぎの世界は、串打ち3年、割き8年、焼き一生と言われるような職人の世界です。つまり、職人がいなくなればこの世界は衰退します。しかし、世界を見ると職人がいない仕組みを構築し世界一になった企業があります。マクドナルドです。誰が入っても同じシステムで、世界中どこでも均一のクオリティが提供できる合理的な仕組みも大切だと考えています。

私は、職人の最高の技術を尊敬しつつも、オペレーションやマニュアル化できる部分については、誰でも高い価値を提供できるような仕組みへ落とし込んでいく変革を進めています。ここで働ければ、ディズニーランドのように楽しいし、新しい取り組みが続いていく。これが私の目指す組織の在り方です。

──戸村さんの根底にある考え方を教えてください。

まずは「TOP OF TOP」。一番を知る、一番になる、です。大切にしている言葉は二つあります。

「温故知新」「変わり続けること」

一流の休み方

──どのようにリラックス時間を設けていますか?

基本的に仕事が好きなので動き続けているのですが、一人で車の中にいる時間・空間は、「誰にも予約されていない自由な時間」として、心が整うリセット時間だと感じています。

他にルーティンとして、毎日寝る前に1時間のストレッチは欠かしていません。どんなに短くても40分は確保しています。40代になってからは、いかに楽に、楽しく、身体を動かし続けられるかを重視するようになりました。「楽」が大切です。

──食や健康面へのこだわりはいかがですか。

美味しいご飯を食べること。自分自身、幼少期だけでなく大人になっても苦労した健康、栄養に関しては物凄く気を遣っています。そういった意味で、うなぎは研究も含めてよく食べます。当店の白焼きを買ったときにラベルを見てほしいのですが、原材料欄に「国産うなぎ」と書いてあるだけなんです。添加物などがなくて。それだけで栄養が1週間も続くんです。研修と言って大阪1泊2日で鰻を8食食べたこともあります。

最後に、絶対にやめられないのは「アイス」です。

戸村 幸寛氏について

株式会社TOMURA 代表取締役

千葉県香取市出身。

(編集後記)

「弱気を知るは強さへの道程だ。」
戸村氏の取材を通して、この言葉が真っ先に思い浮かびました。自分が同じ境遇だったら、こんなにも強くいられただろうか。父親の教えだったのか、戸村氏の素養だったのか、彼の進んでいく道、その真っすぐな目は否が応でも人を惹きつけてしまうように感じます。周囲の応援と彼自身が持っている力が道を拓いてきたのでしょう。

今、その道は地域に、未来に着実に向かっていることを感じました。この場所に来れば、戸村氏に触れれば、明日を力強く踏み出すためのエネルギーがもらえます。戸村氏に会い、栄養満点のうなぎを食べ、一緒に力強い明日に向かいませんか?

▼戸村川魚店:https://tomurakawauoten.com/
所在地: 〒289-0304 千葉県香取市下小堀126−7
電話番号: 0478-83-0678
営業時間:
月曜日 定休日
火曜日 9時00分~17時00分
水曜日 9時00分~17時00分
木曜日 9時00分~17時00分
金曜日 9時00分~17時00分
土曜日 9時00分~17時00分
日曜日 9時00分~17時00分


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