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インタビュー

年間消費量は一人二粒?
シェア四割の王者が挑む驚きの裏舞台

菅佐原徹哉さん

芳源マッシュルーム(株)
取締役専務

ちばらきエリアの一角、千葉県香取市。かつて600軒以上の農家がひしめき合っていたマッシュルーム生産の聖地で、いまや国内シェア約4割を誇り、業界のトップランナーとして確固たる地位を築いているのが「芳源(よしもと)マッシュルーム」だ。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。

誰もが「先がない」と目を背けた斜陽の中で、同社はなぜ、世界に誇る一貫生産体制を築き上げることができたのか。そこには、「難しい時代こそ質にこだわり、プラントを増やす」と突き進んだ社長の強いリーダーシップとこれまでの商業ルートに対しての大きな決断がありました。さらに、質への追及を体現するために菅佐原氏自ら海外の生産現場に飛び込み、技術修行。言葉も通じない本場から持ち帰ってきた独自の「現場感」は、今着実に花を咲かせています。

地域の歴史に根差した資産を世界基準の武器へと進化させてきた、その確かな歩みと次世代へのビジョンを紐解いていきます。

高台の記憶から、歴史を紡ぐ農業の道へ。

── 菅佐原専務、本日はよろしくお願いいたします。まずは菅佐原さんの生い立ちや、この地域での幼少期の思い出からお聞かせいただけますか。

私の生まれ育ちを語るとなると、どこから話すかというところで、つい縄文時代から話したくなってしまうんです。私が生まれたのは旧小見川町の「貝塚」という場所でして、名前の通り、ここは海辺で縄文人がカニや貝をたくさん食べて、その殻が何千年も積み重なってできた台地なんですね。今のここと当時の標高を比べると、およそ30メートルほど高い場所にあります。昔、ある場所でちょっと穴を掘ってみたのですが、本当に出てくるのは貝殻と土器の破片ばかりなんですよ。その台地全体が貝の層の上に成り立っている。つまり、昔の人は水害や災害に強い高台を選んで暮らしていたわけです。今の時代は平地に住むことが一般的ですが、歴史的な視点で見ると、こういった災害に強い高台にこそ豊かな暮らしの原点があります。私はそんな自然豊かな環境で、地域の仲間たちと元気に遊び回る幼少期を過ごしていました。

── 当時はどのような学生生活を送られていたのでしょうか。

地元の小見川中学校に通っていた頃は、まだ子どもがすごく多い時代でした。私の同学年は約400人ほどいて、10クラスもありました。いまはもう定員を大きく下回っていると聞きますから、ずいぶん賑やかでした。当時はちょうどファミコンが発売された世代で、私の会社の社長の知り合いがいち早く買ったので、それを少し借りてゲームを楽しんでいました。その後、高校は銚子市内の進学校に進んだのですが、あまり勉強には身が入らなかったこともあり、進学よりも家業に就職するか、地域企業で働くかという選択肢でした。就職を選んだのは学年で私を含めてたったの2人だけという環境でした。

以前の菌舎外観

── 進学校からそのまま家業へ入るというのは、どのようなお気持ちだったのですか。

当時は明確な将来のビジョンがあったわけではなく、「家であればすぐに働ける環境がある」という、自然な流れに近い感覚で入社を決めました。家の手伝い自体は子どもの頃からやっていましたから、入ってしまえばどうにかなるだろうと思っていたのかもしれません。しかし、私が就職した1996年当時、マッシュルーム業界は安価な海外産の流入によって、大きな構造転換を迫られている真っ最中だったのです。

「攻めの姿勢」。現場の確かな技術。

── 菅佐原さんが入社された当時のマッシュルーム業界の状況と、御社が歩んできた変革について教えてください。

芳源マッシュルーム自体は1967年に栽培を開始し、1987年に法人化しました。日本のマッシュルーム業界が一番盛り上がったのは、1964年の東京オリンピックや大阪万博を経て、洋食文化が普及していった時代です。ピークの1974〜75年頃には国内生産量が2万トンに達していました。当時は銚子の製缶会社(缶詰メーカー)が、魚が獲れない不漁の時期でも仕事がなくならないようにと、野菜の素材缶としてホワイトマッシュルームの栽培を普及させたんです。この地域一帯で、旭市に106軒、銚子に102軒、佐原に87軒など、じつに660軒もの農家がマッシュルームを栽培していました。マッシュルームは米の裏作として非常に優秀で、8月に稲作の藁を集めて秋冬にマッシュルームを栽培し、春になったらまた田植えをするという綺麗なサイクルが回っていたんです。しかし、そこから2000年代に入るまで、日本人の農業離れによって出荷供給数は減っていきました。米の裏作でマッシュルーム栽培を行っていましたが、兼業先が会社勤めへの移行していったという時代背景もあります。

── なぜそこまで厳しい状況になってしまったのでしょうか。

一番の原因は、安価な海外産の原料が日本のシェアの9割を占めるようになったことです。海外産は大量生産されて塩漬けにしたものを日本に持ってきて加工するのですが、その塩漬け品は本来のマッシュルームが持つ美味しさである風味やコクがまったく出ませんでした。昔の喫茶店のナポリタンの上に、2、3枚乗っていた、茶色に変色したマッシュルームを覚えていますか?あれはただ食感があるだけで、洋食のレシピに「マッシュルーム」と書いてあるから彩りのためだけに入れる存在になってしまっていました。このような背景もあり、マッシュルーム本来の美味しさの認知が薄れたことや前述の農家離れという時代の波に抗うことはとても難しかったです。かつて香取市を含め周辺地域には660軒あった農家も、この小見川地域で残っているのはわずか2軒だけです。そんな中で、私たちは缶詰原料から生鮮市場(生のまま販売するルート)への切り替えに本格的に踏み切ったのですが、当時は日持ちがしないからスーパーでも廃棄前提の値付けをされていました。数個仕入れて1個売れれば赤字にはならないような値段設定で。なかなか買ってもらえない厳しい時代が続いていたんです。

── その困難の中で、芳源マッシュルームが生き残ることができた理由は何だったのでしょうか。

ここが私たちの経営のターニングポイントであり、社長の圧倒的な推進力があったからこそ乗り越えられた部分です。1993年頃、私たちはそれまで所属していた缶詰会社から抜ける決断をしました。当時のマッシュルーム栽培は、藁を発酵させる工程の「川上」と、出来上がった商品を買い取る「川下」の両方を缶詰会社に完全に抑えられていたんです。そのため単価交渉もできず、このままでは先がないのは明白でした。結果として独立という形になりましたが、すべてを自分たちでやらなければならなくなり、非常に過酷なスタートでした。しかし、社長はそんな厳しい状況下でも、むしろ「今こそ攻めるべきだ」とプラントの増設を断行したのです。周囲からは「売れない時代に増やすなんて」と不安の声が聞こえてましたが、「美味しい生鮮マッシュルームの需要は必ずやってくる。」という確固たる自信と意志がありました。しかし、まだ苦難は続きます。培地づくり(藁の発酵工程)を外部の生産者様が引き受けたいと言ってきた時期があったのですが、これが次の試練となりました。

── 外部の生産拠点に培地づくりを委託されていた時期もあったそうですが、当時はどのような変化があったのですか?

当時は共同の生産拠点の仕組みに委託していたのですが、時代の変化とともに先方の手が回らなくなってしまい、徐々に品質の管理が難しくなっていったのです。その結果、栽培の成績が大幅に落ちてしまいました。それまで坪当たり60キロの収穫を目指していたのが、30キロまで下がってしまいました。さらに、培地の状態が安定しなくなったことで、栽培室にピンク色や緑色のカビが発生し、それをエサにするダニが一時的に増えてしまうなど、現場の管理を任されていた私としては本当に頭を抱える日々が続きました。
しかし、ここで社長の推進力が活きました。社長は「このままでは私たちが目指す最高品質は届けられない。自分たちにしかできない品質管理を徹底するため、もう一度すべての工程の主導権を自社に取り戻す」と決断したのです。そこから外部との関係性を丁寧に見直し、現在の強みである自社での完全な一貫生産体制へと舵を切り直しました。

── 社長の強いリーダーシップが、自社一貫生産体制への道を切り拓いたのですね。菅佐原専務はその中でどのような役割を担われたのですか。

社長がそうやって強い意志で大きな舵取りをして道を切り拓いてくれる一方で、その体制を実際に現場で機能させ、安定した品質にまで落とし込むのが私の役割でした。私たちはそこから、栽培先進国であるオランダやドイツの最先端技術を導入することに決めたのです。私は32歳のとき、言葉もわからない状態でドイツへ渡り、4週間におよぶ技術研修に身を投じました。当時はオランダの専門家から「日本人にこの設備を扱うのは難しすぎるし、投資に見合わないからやめといたほうが良い。」とまで言われたんです。2010年当時の話ですが、国内では弊社が初の試みです。加えて、諸外国でもその設備を最後までうまく活用できずに撤退していってしまったと聞いています。しかし、私は現場の責任者として、機械のメンテナンスから空気の流れ、温度管理にいたるまで、見よう見まねではなくその「本質」を徹底的に掴み取るまで諦めませんでした。技術、設備を導入して以降、現在に至るまでオランダやドイツに足を運び最新の技術や設備を学び続けています。
社長が「何があってもプラントを増やし、一貫生産を貫く。」という強い推進力で引っ張ってくれたからこそ、私は現場で数々の失敗を恐れずに重ね、それを確かな技術へと変えることができました。現在、世界的に見ても、培地づくりから栽培、出荷までを自社で一貫して大規模に行っている企業は減ってきているのが実情です。この社長の意志と、現場で培った独自の技術が融合したことこそが、私たちが国内トップシェアを誇る唯一無二の武器なのです。

35グラムの壁を越え、高品質なものづくりを次世代へ繋ぐ

── 現在、芳源マッシュルームが最も注力していること、そしてこれからの未来に向けたビジョンについて教えてください。

マッシュルームという食材は、本当に素晴らしいポテンシャルを持っています。旨味成分や香りが豊かで、どんな料理にも合わせられる万能なキノコです。しかし、弊社のマッシュルームの日本人一人当たり消費量は、わずか「35グラム」に留まっています。日本全体で見ても「70~80グラム」と言われているため、非常に少ない消費量です。

── 35グラムというと、どれくらいでしょうか?

たったの「二粒」程度です。一年間で二粒しか食べられていない。つまり、私たち生産者から見れば、市場にはまだまだ無限の伸びしろと可能性が眠っているということを意味していると考えています。この状況を変えるために、私たちはここ数年、従来の商社任せの流通から一歩踏み出し、あえて「芳源(よしもと)」という自社ブランドの存在を表舞台に出していく戦略を取り始めました。スーパーの売り場で私たちの名前がしっかりとお客様に届くよう、ブランドラベルの制作やInstagramでの発信を強化しています。過去に出来上がってしまったマッシュルームの印象「味気の無い飾り物」から脱却するための努力は私たちが推進していかなければいけません。

── その仕掛けの一つが、吉本興業さんとのコラボレーションだったのですね。

そうですね。当社は芳源(よしもと)ファーム有限会社として1987年に事業を開始しました。芳源の「芳」は創業者の「菅佐原芳夫」の「芳」、「源」は先祖の屋号である「源左衛門」から取ったものだと言われてきました。設立当初から吉本興業さんの「よしもと」の音は意識してまして、読み方は乗っからせてもらっていると感じていました。全然関係ない人が聞くと「よしもと(興業)がマッシュルーム栽培をしているのか?」と思ってしまう可能性をつくっているかもしれない…怒られるかもしれない…と感じていた時期もありました。
それが巡り巡って、地方創生で地域を回られていた吉本興業さんとご縁があり、2023年2月に正式にコラボが実現しました。マッシュルームヘアーの芸人さんたちとユニットを組んで歌や動画を作ってもらったのですが、これが非常に好評で、私たちの認知を拡大するための有り難い機会になりました。

── 世代交代という面では、今後どのような組織を目指していらっしゃいますか。

ちょうど今、会社は大きな世代交代のタイミングを迎えています。社長や常務、部長も、あと10年ほどで次の世代へバトンを完全に渡していくことになっていきます。これからの10年で、この日本一の栽培体制を継続しつつ、さらに新しい付加価値を作れる組織へ変革していかなければなりません。その一環として、規格外で廃棄になってしまうマッシュルームを活用した「加工品」や新しい名物商品の開発をちょうど今月からスタートさせました。先行して取り組んでいた加工品については、「マッシュルーム出汁」という形で活用いただけるようになり、製品の味・質ともに磨きがかかったと社内でも好評をいただいているようです。

── 伝統の継続と未来への変革。この両輪をバランスよく推進している印象ですが、未来に向けてどのような人と働きたいですか?

私たちは地域機関などからのサポートもいただきながら、地域内外から意欲ある人材を採用し始めています。労働人口が減少していく中で、私たちが求めているのは、特定のスキルもさることながら「のびのびと自分の意見を言える、自力で考えて新しい挑戦を楽しめる人」です。ちばらきエリアの土地柄なのか、私たちの会社のスタッフはアットホームで人が温かく、プラント長たちも風通しよく意見を言い合っていますが、どこか控えめな人が多い印象があります。だからこそ「もっとこうしたら面白くなるんじゃないか」と、自発的に企画の提案をしてくれるような、エネルギーのある人材に仲間になってほしいです。社長が築き上げてくれたこの強固な基盤を活かし、マッシュルームの魅力を全国、そして世界へ発信する体制を一緒に創り上げていける人なら、これ以上ないやりがいと人生の豊かさを感じられるはずです。

地元の「マッ唐定食」でエネルギーを満たす

── 菅佐原専務の、多忙な日々を支えるリセット法やプライベートの過ごし方について教えてください。

休日は時間を取れるときはしっかりと時間を取って、心身をリフレッシュするようにしています。直近の休日には、航空ショーを見に行ったり、自宅でゲームを楽しんだり、流山発祥と言われている「ヘルスバレー」というスポーツをやってアクティブに体を動かしています。

── お酒を飲むこともお好きだと伺いました。地元でおすすめのお店はありますか?

かみさと食堂「タルタルマッ唐定食」
和洋酒場 月(ルナ)「ジャンボマッシュルームのカルパッチョ」

旧小見川町周辺だと、同級生がやっている「かみさと食堂」ですね 。マッシュルームの唐揚げをよく食べに行っているのです。最近、自社のマッシュルームを丸ごと唐揚げにして乗せた「タルタルマッ唐定食」という新メニューができたので、早く食べに行きたいと思っています。
それから、最近行った佐原駅近くの「和洋酒場 月(ルナ)」さん。弊社のマッシュルーム特集がメニュー2ページ分もあって驚きました。地元の飲食店さんで自社の商品が愛され、看板メニューとして育っているのを見ることが、私にとって一番のパワーチャージになっています。

▶芳源マッシュルーム公式HP: https://www.ymush.co.jp/

▶公式Instagram: https://www.instagram.com/yoshimoto_mushroom_official/ 

(編集後記)

旧小見川町の台地、先人が水害に強い安全な地として選んだ「貝塚」から始まった芳源マッシュルームの歩みには、日本のものづくりの理想的なバトンパスの姿があるように感じました。時代の逆風が吹く中で「今こそ投資し、一貫生産を貫く」と言って道を切り拓いた社長の初志貫徹の意志と推進力。そして、その高い志を受け止め、言葉も通じない海外へ飛び込んで最先端の技術を自社の確かな現場知へと落とし込んだ実務責任者・菅佐原専務の誠実な歩み。この二つの力が噛み合ったからこそ、同社は国内シェア4割という圧倒的な地位を築くことができたのだ。
現代を生きる私たちは仕事の本質を見誤っているのではないだろうか。いつの時代も誠実さと覚悟が時代を切り開いてきたはず。インターネットの情報に踊らされるのではなく、信じる道を進む覚悟と姿勢。菅佐原氏のインタビューを通じて、私たちが進むべき道も照らされたような気がしました。

菅佐原氏が語る「日本人の消費量は、まだ年間わずか二粒」という数字は、ちばらきエリアの一次産業が秘める、まだまだ大きなフロンティアの存在を証明しています。吉本興業との共創や、地場メーカーとタッグを組んだ新たな加工品開発など、確かな品質を軸にした彼らの次世代経営は、地域社会に新たな活力を与えているはずです。社長が築き上げた強固な基盤を引き継ぎ、この街から全国・世界へ新しい食文化を発信していく次世代のプレイヤーにとって、同社はこれ以上ない挑戦の舞台となること間違いありません。


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