「成り行きで生きてきました」
――そう語る成田観音円応寺の住職・髙岡氏。意外にも、お寺の長男という立場に特別なプレッシャーは感じず、目先のことだけを考える学生時代を送っていた。しかし大学3年、父と祖父を立て続けに見送るという急転直下の出来事が訪れる。檀家名簿もない状態から、母と車で一軒一軒檀家を探した日々。さらに土砂崩れという思いがけない出来事が、彼を寺へと導いた。「ブレて生きる」ことを強さに変えてきた髙岡氏が、今見据える「日本一有名なお寺」という未来。その背景にある人生の物語に迫る。
「それしかないんだろうな」――目立ちたくない少年が、住職になるまで
── まずは幼少期について教えてください。どんな環境で育ったのでしょうか。
私は成田市、旧大栄町の伊能という場所で生まれ育ちました。現在の円応寺があるところです。今年で36年目になります。小学校、中学校は地元で、高校は酒々井にある学校に通っていました。子供の頃は通学路に駄菓子屋さんがあって、下校途中にみんなで寄り道していました。今はそういうお店もなくなり、少し寂しくなったなという感覚はありますね。
小学校は大須賀小学校で、歩いて20〜30分の集団登校。教室で本を読んだり絵を描いたりするのが好きでした。声だけは昔から大きくて、友達と喋っていてもなぜか私だけが先生に怒られる、なんてことがよくありました。中学・高校は卓球をやっていて、高校では生徒会長もやっていました。目立ちたくないのに、なぜか目立つ役割が回ってくる、そんな性格でした。
── お寺の長男として、何か特別なプレッシャーのようなものはあったのでしょうか。
ほとんどなかったんです。祖父が住職で、父は私が小学生の頃までNTT関連の会社に勤めながらお寺を手伝っていました。家業の傍らで会社員として働く姿が日常の光景だったのも、プレッシャーを感じない理由だったのかもしれません。「お坊さんになるんだろうな」というのは、「それしかないんだろうな」という自然な感覚でしたね。中学卒業から高校までは坊主頭で過ごしていて、卓球部なのに「野球部?」って聞かれたりしていました。将来のことは、本当に何も考えていなかったです。大学受験も「できるだけ早く決めて、楽したいな」くらいの気持ちでした。


── 大正大学への進学を決めたのは、どんな経緯だったのでしょうか。
私たち真言宗豊山派のお坊さんは、本山で修行をするか、大正大学に入るか、大きく2つのルートでお坊さんになります。だから「大正大学に行く方が良いだろうなあ」という感覚が大きかったです。仏教学科だと周りがみんなお坊さんになってしまうため、もう少し外の世界も知りたかったですし、歴史が好きだったこともあり、歴史文化学科を選びました。
とはいうものの、大学時代はサークル活動や飲み会が本当に楽しくて、いわゆる「しょうもない大学生」をやっていました。学外の友人も含めて100人のサークルを作って飲み会をしたり、熱海に1泊旅行に行ったり。当時一緒に飲んでいた後輩が、今は税理士としてお寺の税務を手伝ってくれているんですが、「あの時の繋がりが今も生きているんだな」と感じる場面が多いですね。
檀家の家探し。「成り行き」が導いた住職としての覚悟
── そんな学生生活の中で、大きな転機が訪れたと伺いました。
大学3年生の時です。父が癌で入退院を繰り返していて、心のどこかでは「いつか何かあるかもしれない」という思いはあったんですが、現実を見たくなくて、普通に友達と遊んでいました。
ある日、大学で追試を受けている最中に、母から「父が亡くなった」という連絡が入りました。「帰らなきゃ」と思ったんですが、先生がすごく怖い顔で見ていたので、「これは今、言えないな」と思って、追試を受けてから帰りました。父が8月、祖父が11月と、立て続けに見送ることになって。本当に大変な時期でした。
正直に言うと、当時は「やらなくちゃ」という気持ちより、「やりたくない」という気持ちの方がずっと強かったです。現実を受け入れるのが怖くて、目の前で起きていることから、できるなら離れていたいという感覚でした。それでも、時間は待ってくれないので、少しずつ向き合わざるを得なくなっていった、というのが正直なところです。

── そこから、どうやって僧侶としての経験を積んでいったのでしょうか。
檀家さんの名簿も、ワープロで打ったようなざっくりしたものしかなくて、住所も分からない状態。お盆の時期には、母を車に乗せて二人で「この辺かな」「違うな」と一軒一軒探しながら回っていました。最初は本当に大変だったんですが、周りの方々にたくさん助けていただいて、なんとか乗り越えることができました。
ただ、すぐに気持ちが切り替わったわけではありません。大学卒業後、一度埼玉県で一人暮らしをしていた時期があって。「お寺をやっていくのは、まだ難しいな」と思いながら、アルバイトをしつつDJをやったりしていました。そんな半年が過ぎた頃、2013年の10月に台風が来て、お寺の裏山が土砂崩れを起こしてしまったんです。その時、「お寺に帰ろう」と思いました。それで部屋を引き払い、こちらに戻って観福寺で働かせていただくようになりました。そこで法事や葬儀、ご祈祷の経験を本当にたくさん積ませてもらいました。この出来事がなければ、帰る時期を決めかねる期間がもっと続いていたかもしれません。
── ご自身を振り返って、「成り行きで生きてきた」とおっしゃっていますね。それは、どんな意味があると感じていますか。
その時々で起きたことを、受け入れて、前に進んできた。それを「成り行き」と呼んでいるんですが、これは決して受け身という意味ではないんです。むしろ、自分の中に「こうじゃなきゃダメだ」という固い軸を作りすぎないことで、何が来ても受け止められる。そういう柔軟さなんじゃないかなと思っています。
お寺の世界って、結構固いままやってきた歴史があると思うんです。でも、これからの時代は、そういうときにこそ、少し揺れてみる柔軟さが必要なんじゃないかと。法隆寺の柱って、実はすごく揺れる構造になっているらしいんですよね。あれだけ古い木造建築が長く残っているのは、固すぎないからこそなのかなと。「ブレて生きていく」というのは、そういう、長く続けていくための強さなんじゃないかなと思っています。
成田にもう一つの高野山を。敷居を低くする、という挑戦
── そんな高岡さんが、目指している未来について教えてください。
私はもう、日本で一番有名なお寺ぐらいにしたいなと思っているんです。目標だけは高くいきたいなと。今はまだ、すごく小さなお寺なんですが。
大きなお寺さんって、どんな人が住職をやっているのか分からなかったり、敷居が高かったりすることもあると思うんです。だから、できるだけ来やすく、敷居を低くして、どんな方でも気軽に相談しやすい場所にしたい。中の人がどんな人なのかを分かりやすく伝えていくことが、これからすごく大事なんじゃないかなと思っています。大きさでは図れない、顔の見えるお寺として一番有名なお寺を目指したいです。
この背景にある思いは、有名なお寺になれば、多くの悩める人々、救いを求めている人々に知ってもらえて、それだけ多くの方の心の拠り所になることができるからです。

── 具体的には、どんな構想をお持ちですか。
このお寺を中心に参道があって、いろんなお店が軒を連ねて、賑わっている。宿坊をやってみたり、温泉を掘ったり。境内でジムやパン屋さんを併設しているお寺も全国にはあるんです。お寺を中心に一つの街になったら面白いだろうなと。高野山がまさにそういう場所で、山の上に一つの街があって、それぞれのお寺が宿坊をやっていたり、お店があったりする。あれってすごく良いなと思うんです。成田は海外からも東京からもアクセスが良いので、可能性はすごくあると思っています。
── そうした構想に向けて、今取り組んでいることはありますか。
まずは、お寺の仕組み化です。最初は私と母だけで作業を行い、檀家さんから依頼があれば拝みに行く、という状態でした。御朱印やご供養をやっているうちに、お客さんが少しずつ来てくれるようになって、依頼も増えてきました。それで妹に手伝ってもらったり、アルバイトの子に来てもらったりしています。最悪私がいなくても受付や業務が回る仕組みを作りたいと思っていて、そこができれば、また新しいことに挑戦できるんじゃないかなと。
── お寺のお仕事の中で、意外な依頼もあると伺いました。
草刈りですね。最初は、檀家さんから「東京に住んでいて実家の管理ができない、草がすごくて困っている」というご相談があって、「じゃあ私がやりましょうか」と始めたんです。実は草刈りが好きで、一人で集中してやっていると、瞑想と通じるものがあるなと感じます。最近はアルバイトの子たちに草刈りを頼んで、お寺の事業の一つとしてやってもらっています。高野山のような賑わいも、草刈りのような小さな仕事も、どちらも一緒に作っていける仲間がいてくれたら、もっと広がっていくと思っています。
一人では抱えきれない。これから一緒に作っていく仲間へ
── これから、どんな仲間と一緒に働いていきたいですか。
一緒にお勤めができるお坊さんがいたら、すごく心強いです。法事や葬儀が同じ時間に重なってしまうと、どうしても私一人では対応できないことがあって。
アルバイトや業務委託のような形で、すでに手伝ってもらっている部分もありますが、まだまだ仕組みとして整えていく必要があると感じています。これから一緒にこの場所を作っていける仲間が増えたら、本当に嬉しいです。

── 戒名を考えるのも、住職としての大切な仕事だと伺いました。
そうですね。本来は生きているうちに戒を授かるものなんですが、今は一般的に、亡くなられた時にお授けする形になっています。葬儀の依頼をいただいた時に、その方がどんな仕事をしていたか、どんな趣味があったか、どんな人柄だったかを、できる限り詳しくお伺いします。それを漢字に当てはめて、六文字や九文字の戒名にしていくんです。慣れないうちは三日三晩考えたりしましたが、葬儀の時に「こういう意味で、こういうお名前を付けさせていただきました」とお伝えして、ご家族に喜んでもらえると、考えてよかったなと思いますね。そういう一つひとつの積み重ねが、お寺と地域の方々との関係を作っていくんだと思っています。
筋肉痛になりながら、成り行きで。住職の人間味あふれる日常
── 最後に、お休みの日の過ごし方を教えてください。
今までは、休みをあまり作っていなかったんです。「仕事していたいから、休みはいらないかな」と思っていたんですが、最近はオンオフを切り替えるために、休みを作ることも大事だなと思うようになりました。いつか、一人でお寺巡りをしてみたいなと考えています。
リフレッシュとしては、週に1〜2回、ジムに行って筋トレをしています。パーソナルトレーナーをはじめた知り合いから声をかけていただき、始めることにしました。かなり追い込まれるので、だいたい筋肉痛なんですけど。これも、成り行きで始めたことの一つですね。
【編集後記】
取材を通して感じたのは、髙岡さんの「ブレ」が、実はとても静かな強さだということでした。
父と祖父を立て続けに見送り、住所もわからない檀家を母と一緒に探し回り、土砂崩れという思いがけない出来事を経て、お寺に戻る。普通なら、心が折れてしまいそうな出来事の連続です。それでも髙岡さんは「成り行きで」と、淡々と語ります。
でも、その言葉の奥にあるのは、起きたことをそのまま受け止め、丁寧に前へ進んできた人の姿でした。法隆寺の柱が揺れることで千三百年残ってきたように、固くならず、揺れながら、受け入れていく。それは弱さではなく、長く続けていくための強さなのだと、お話を聞いていて強く感じました。
ブレてもいい。揺れてもいい。そう思えたら、人生はもっと楽に、もっと楽しくなるのかもしれません。
取材を終える頃、雨が降ってきました。受付の方が優しく話しかけてくださいました。髙岡さんのお人柄、姿勢は、働く仲間も朗らかにしていくのだろう。朗らかで揺れる、でも芯のある人たちが集まるお寺。それが成田観音円応寺という場所なんだと強く感じます。
ゆりかごから墓場まで――いや、生命が母体に宿る前から亡くなった後まで。子育て観音としてはじまり、魂の供養まで、私たちの人生に朗らかに寄り添ってくれる髙岡さんと成田観音円応寺の存在は、安心して明日を迎えるためのお守りになっているはずです。
▼円応寺概要
・正式名称:引地山成就院圓應寺
・住所:〒287-0204 千葉県成田市伊能2457
・公式HP:https://www.kosodatekannon.com/
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