東国の熱量を届ける

About Contact Instagram
インタビュー

「自分の人生の手綱を、誰にも渡すな」
瓦の伝統と新領域を拓く、“七転八倒”の生存戦略

篠塚 聖さん

有限会社シノツカ
代表取締役

千葉県香取市。かつて「水郷の商都」として大きな転換点を迎えていくであろうこの街で一つの道しるべとなる松明に出会いました。今回お話を伺ったのは、有限会社シノツカを率いる篠塚聖氏。瓦屋の三代目という看板を背負いながら、その歩みは伝統の継承に留まらない、常に「攻め」の連続でした。

就職氷河期、公共事業の凍結、リーマンショック、そして東日本大震災。幾多の抗えない濁流に飲み込まれそうになりながらも、篠塚氏はその都度、自力で舟を前進させてきました。「理想を形にするには、まずそれを支え抜く強さが必要だ」。一見、冷徹にも聞こえるその哲学は、七転八倒しながら力強く生き抜いてきた者だけが持つ、究極の誠実さと優しさの裏返しでもあります。香取の地で、自分の足で立ち、新しい価値を創造しようとする一人の経営者の、圧倒的なリアリズムに迫ります。

「芝張り」から始まった運命のいたずらの連続。
翻弄される世界に決別した25歳の覚悟

── 篠塚さんは香取市のご出身ですが、どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。

生まれも育ちも、ここ香取市です。私が子供の頃はベビーブーム世代で、一クラス40人、8〜10クラスもあるような時代でした。道路沿いには自宅で商売をしているのが当たり前の光景でした。米屋、郵便局、花屋、藍染め、魚屋、ブリキ屋、自動車板金……。あちこちに商店がひしめき合っていて、経済が伸びていくエネルギーを肌で感じていました。当時はそれがどこでもある景色だと思っていましたが、今振り返れば、地域全体が一つの大きな会社のような活気がありました。

── その後、建築の道に進まれたのは家業を意識してのことですか?

そうですね。特段、勉強熱心だったわけではありませんが、いずれはこの会社を継ぐんだろうなということは少なからず意識していました。地元の鹿島学園から栃木の大学へ進み、建築を学びました。とはいえ、大学生活は4年間をなんとかこなすという感じで、早く働きたいという思いの方が強かった記憶です。卒業後は知り合いのよしみもあり、常総開発工業という会社に入社し、いわゆる準ゼネコンの社員としてキャリアをスタートさせたんです。

── ゼネコンでの仕事は、やはり花形の設計などだったのでしょうか。

それが、現実は全く違いました。建築で入ったはずなのに、超就職氷河期だったこともあって、入社初日に土木課へ異動。最初に配属された現場は鹿島スタジアムの工事でしたが、渡されたのは図面ではなく芝。一ヶ月間、ひたすら芝を張っていました。「自分の本来の仕事は現場監督じゃないのかな?」と思いながらも、芝を張り、測量をし、泥にまみれて働く日々。夜間工事の歳には不注意で重機を田んぼに落として、こっそり引き上げたなんて苦い思い出もあります。

── 厳しい現場生活ですね。そこから家業に戻られたきっかけは何だったのですか?

就職氷河期の時もそうですが、社会の大きな濁流に飲み込まれたことが一番大きな要因でした。2000年代中盤、政権交代の直前でした。「公共事業の仕分け」によって、官公庁の仕事が文字通りゼロになったんです。昨日までバリバリ働いていた先輩たちが、朝から晩まで机に座っているだけの「窓際族」になっていく。毎月、誰かが静かに会社を去っていく姿を見て、痛烈に悟ったんです。自分の人生を、組織や他人に委ねてはいけない。誰かの決断一つで自分の明日が消えるのは、もう御免だ、と。25歳の春、私は組織という盾を捨て、自らの人生の手綱を握るべく家業へと戻る決意を固めました。

瓦の伝統を核に、新領域を切り拓く。
逆境を「攻め」の好機に変える生存戦略

── 実家に戻ってからは、どのようなお仕事をされていたのですか。

戻った当時は、新築や修理の瓦工事が中心でした。父が葬儀事業を立ち上げていたこともあり、現場の瓦事業は私が切り盛りすることになったんです。しかし、ここでもまた試練が来ました。29歳の時のリーマンショックです。仕事も材料もなく、業界全体が凍りついたような状況でした。

── その窮地をどうやって乗り越えたのでしょうか。

「瓦屋だから瓦しかやらない」という執着を捨てました。瓦の技術は守りつつ、当時ニュージーランドから導入され始めていた新しい板金屋根材に着目したんです。トステム(現リクシル)のテストケースとして、成田での大規模施工に踏み切りました。当時は板金屋さんも手を出さない、瓦屋さんも見て見ぬふりをする「空白の領域」でした。

── 新しい事業への転換には、大きな投資と覚悟も必要だったのではないですか。

もちろんです。しかし、家族経営ではないからこその組織だったので、意思決定は自己責任。自分で腹を括りすぐに行動に移しました。金融機関に対しても、単なる延命ではなく、この事業がいかに将来性があるかを論理的に説き、スピード感を持って必要な資金を確保しました。30代はとにかく走り続けました。3.11の震災後は、2年近く修理・修繕の仕事に追われました。目の前の仕事と困っている人たちへの支援を必死に行ってきたことは後悔していませんが、事業の種まき、営業、広報の手を止めてしまったことは今でも教訓になっています。その後もいろいろ行動しては悩んでの時期が続いていました。新しい取り組みの一つで元々保有していた屋根診断士資格を活かした鑑定士業務も行いました。そのときの経験から、「火災保険を活用した修理」という領域の不透明さに気づき、業界全体の仕組みを変えたいと考えるようになりました。

── 業界の仕組みを変える、とは具体的にどのようなことでしょうか。

保険の申請スキームに疑問を抱き、あいおい損害保険の鑑定人業務を経験しました。審査する側を知ることで、真に健全な保険の在り方を実現したいと考えたんです。 現在は、某大手保険グループも巻き込み、約400社が加盟する「一般社団法人 全日本災害住宅レジリエンス協会(JRD)」の本部事務局として、適正な保険活用を広めるための新スキーム構築を牽引しています。瓦という「点」の仕事から、業界の構造を変える「面」の仕事へ。挑戦のステージを広げ続けてきました。

「実力なき理想」は形にできない。
挑戦者を支え抜くための圧倒的なリアリズム

── 近年では福祉事業にも進出されていますね。どのような背景があったのでしょうか。

2020年頃、将来の社会課題を考えた時に、障害福祉の必要性がより高まっていくという確信を得たからです。ある方との出会いも大きかったです。その方のこれまでの経験や知見に多くの人が集い、そこからビジネスが動き、経済が生まれるような人です。その人の言葉の重みに圧倒されました。そこで障害児の放課後等デイサービスやグループホームの可能性を知り、迷わず参入を決めました。

── 瓦屋から福祉、一見全く違うジャンルへの挑戦に見えます。

実は、根底は同じです。社会の要請に応え、持続可能な事業モデルを構築すること。福祉事業は会社構造上デリケートな事業ですが、だからこそ質の高いサービスを提供し、自走できる組織を作ることが重要です。現在では5棟のグループホームを運営していますが、これもまた、時代の変化を読み解く試行錯誤の連続です。

── 七転八倒、辛酸を多く舐めた篠塚さんだからこそ、これからの挑戦者に贈れる言葉があるように思います。

そうですね。私はあえて「足元の基盤が盤石でないうちは、安易に理念を語るな」と言っています。それは突き放しているのではなく、理想を実現したいなら、まずそれを支え抜く実力と経済力を持て、というエールなんです。自分が不安定なままでは、どんなに素晴らしい志も、結局は周囲の足を引っ張ってしまうことになりかねないという光景を幾度も目にしてきました。

── 篠塚さんなりの、経営者としての誠実な「優しさ」に感じます。

起業して最初の1、2年は、何をやってもどん底です。私自身、何度もその苦しさを味わってきました。だからこそ、安っぽい励ましではなく、具体的にどう与信を取り、どうチームを組み、どう資金を回収するか、経営とは、を伝えようとします。自分が泥を啜って得た体験こそが、一番の教科書になると信じています。

── 今後、有限会社シノツカをどのような組織にしていきたいとお考えですか。

私がいなくても自走できる組織にしたいですね。自分自身が50代に突入することもあり、現場を任せられる次世代や仕組みを育てたい。そうすれば、私はまた新しい「まだ誰も手をつけていない面白いこと」に着手できる。常に走り続け、変化し続けることが、私の本能なのかもしれません。

馴染みの店で交わす本音。
地域という「現場」が育むエネルギー

── 常に動き回っている印象の篠塚さんですが、オフの時間はどのように過ごされていますか?

正直、オフらしいオフはほとんどないかもしれません。グループホームで突発的な事態があればすぐに対応しますし、常に頭のどこかで仕事のことを考えています。ただ、地元の馴染みの店で過ごす時間は大切にしています。

── おすすめの「ご飯処」はありますか。

同い年の店主がやっている『だし処まにまに』や、安定の『焼肉会館』はおススメです。香取市内で食事する機会は、あまり多くないかもしれません。地域外に出て、人と会い、情報を共有し、市場の動きやリスクがありそうな場所を話し合っています。外に出ないと、今の本当の状況は見えてきません。内側を守るためには、外に出て、なにが起きているのかを常に学んでいく必要があると考えています。でも、市内で熱量高く語り合える場はやっぱり欲しいですよね。


篠塚聖氏について

有限会社シノツカ 代表取締役

千葉県香取市出身。幼少・学生時代を地元で過ごした後、高校は川向こうの鹿島学園特進コースに進学。足利工業大学(現:足利大学)にて建築学を学んだ後、地元の常総開発工業に就職。超就職氷河期、政権交代、リーマンショック、コロナなど多くの時代のうねりに翻弄されながらも瓦、屋根事業だけでなく福祉事業への参画など、多岐事業で成功を収める。


(編集後記)

篠塚氏へのインタビュー中、私の脳裏に浮かんだのは「不屈の安全保障」という言葉です。筆者(長嶺)も七転八倒の言葉を掲げていますが、七転八倒をしながらも、よりしなやかに、より強く前に進んでいる先輩経営者に出会えたことは大きな財産に感じました。

「自分の人生を他人に委ねない」という篠塚氏の信念は、篠塚氏が生まれた時代背景もあるかもしれませんが、時代の荒波に立ち向かい、力強く進む人たちにとっては、どんなときでも金言になるのではないでしょうか。だからこそ、篠塚氏は単なる稼ぎ方ではなく、この地域で生き抜くための「武器」を授けようとしている。一見厳しい言葉の数々は、篠塚氏が自ら泥にまみれて築き上げてきた、挑戦者への最大級のリスペクトの裏返しなのです。「稼ぐ力」を身につけ、地域社会に実力で貢献したいと願う人にとって、篠塚氏という存在は、最も心強い伴走者となるはずです。


東国WORKSでは、地域で挑戦する企業・人を募集しています。取材のご依頼はこちらから随時受け付けております。

取材・掲載をご検討の方へ

一覧に戻る